覗かないで、と夫が首を振った理由

亡き夫のこと

「これ、消して。」

― 病室で、娘が託されたもの

ある日のことです。

仕事を終え、病室にお見舞いに向かうと、
そこにはすでに高校帰りの娘が来ていました。

主人はその日、呼吸が苦しそうで声も出せず、
何かを娘に伝えようと、手に持ったスマホを指差していました。

静かなやりとり。
娘はスマホの画面を見つめながら、
主人の指示に従って操作をしている様子でした。

私はそっと近づきながら、耳を澄ませました。

「これ、消して…」
「それも、消して…」

娘は淡々と、メールを削除しているようでした。


あっち行け、と主人は首を振った

「何してるの?」と声をかけながら、
私がスマホを覗き込もうとしたその瞬間。

主人の表情がスッと険しくなり、
声にならない声で「ん、ん」と言いながら
私に「あっちへ行け」と首を振りました。

拒否する、というよりも
「今は見ないでくれ」という必死な意思が伝わってきました。


残された者としての想像

後から思い返すと、
あれはきっと、本当に大切な“何か”を整理していたのだと思います。

主人は金融機関に勤め、管理職として
多くの機密情報を扱っていました。

もしかしたら…
お客様の大事なデータや、守らなければならない記録を
最後の力を振り絞って消していたのかもしれません。

もしかしたら…
プライベートな何かを、娘にしか頼めなかったのかもしれません。

今となっては、確かめようもありません。


私にとっては「信頼」の証だったのかも

きっと主人は、私を遠ざけることで
最後まで責任を果たそうとしていたのだと思います。

そして、娘に託したということは
それだけ娘のことを信じていたのだと思うのです。

私が見ないように、とあえて首を振ったのも
きっと私への「優しさ」だったのかもしれません。


そっと、あの日の記憶を胸に。

あのやりとりの真相は、もう誰にもわかりません。
でも私は、あの姿を忘れることはありません。

スマホという、時に重たい記憶の詰まった小さな箱。
それを通して、
主人の“最後の意思”のようなものを、私は受け取ったような気がしています。


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